「水彩画」B53 ヒラリオン

絵はボトルの色で私が感じる思いで描いています。
オーラソーマとしてのボトルの意味とは異なることもあるでしょね。

生命の樹を始めて、このボトルを塗り始めている。
使っているからこそ感じている物が描けると思うのだ。
ボトルを前に目を閉じるとすぐにその画像が私の目に浮かんだ。
ひっそりと森の奥にある清らかな泉
小さな草花に囲まれ泉はエメラルド色に輝く

アファメーション:私は決断すを下すことができます。私は私の方向をはっきりと見ることができます。私は心理を見つける過程にいます。

ペールグリーン/ペールグリーン

静かな森の奥、そこは誰にも知られることのない場所
私にしかたどり着けない
私にしか存在を確認できない
私にしか入ることが許されない

私の中に存在する美しい泉
その美しい泉にたどり着いた時
私は私自身を取り戻せる

「水彩画」B32 ソフィア

絵はボトルの色で私が感じる思いで描いています。
オーラソーマとしてのボトルの意味とは異なることもあるでしょね。

ロイヤルブルーの色はサイキックアイがムズムズする色です。
そして下のゴールドはそれと対極にいる色。
このコントラストの鮮やかさは、地球の色というより宇宙の色とえいる。

アファメーション:私は、私という存在に明晰さをもたらします。深い歓びと平和に開いていきます。

ロイヤルブルー/ゴールド

エネルギーは渦なのだと思う
混じり合い溶けあうエネルギー

この対局にある2色は「陰陽」でもある

人は全てにおいて対峙したものの見方をして生きている。
それが人が存在する意味でもある。
そしてそれが多くの苦しみも生んでいる。

いかに比べることなく「どちらも同じ」感覚を理解するのか

生きるとは、全ては見た目の違いだけだと理解することであると思うのです。

 

 

2度目の「生命の樹」始めます

今日は 2017年11月28日 足して 31 私のバースボトルの数字です

狙ったわけではないが、何気なくたしたら今日がそんな日でした。

で、このボトルから始まります。

B53 ヒラリオン ペールグリーン/ペールグリーン

下が青く見えるのは、いつものこと
私の棚のオーラソーマのボトルは、下のペールグリーンがすぐに青緑に変化します。
それがまたとても好きで私にはたまりませんねヾ(≧▽≦)ノ

私が求める道への気づき、その先にある真実、
そしてさらなる自己への探求、生きる意味の本当の真実とは

隣のクリソコラジェムシリカが何とも言えない色合いです。
今日ボトルと共に私の手元にやってきました。
しばらくは相棒としてお守りで持ち歩きたいと思います(^^♪

「水彩画」B71 エッセネボトル 蓮の花に中の宝石

絵はボトルの色で私が感じる思いで描いています。
オーラソーマとしてのボトルの意味とは異なることもあるでしょね。

私はこのボトルは選ばない、ピンク自体選ばないのだ

なぜって、私には似合わない色だから、そう洋服的には・・・

そしてイメージとしても全く私とは縁遠い色である。

その遠い存在の色を描いてみた。

アファメーション:このままで、私は神であることを知ります。

ピンク/クリア

私達は色の中で生活している
そして色により心を揺り動かされている
逆も然り 心の揺れが色となって表れてもいる・・・
色は目の機能が働いているから見えるわけではない
目を閉じていてもはっきりと見えている
そして目を閉じて見える色は 鮮やかさと光に満ちている
そう、全ての人に色は見えている
色は肉体の機能とは関係のない所から生まれているようだ

音楽から学ぶこと

私は「小曽根真」のファンです。

年6回は出かけていると思いますが、先日行ったコンサートで何故か、はたと気づいてしまったことがあったのです。

彼はジャズピアニスト、ソロで弾くのはまれで、ほとんどセッションとか、最近はオーケストラとクラシックピアノにも挑戦しているのですが、
今回は、2部にピーター・アースキンとのジャズセッションが入っていました。

ピーターアースキンはドラマーです。
私は初めて彼を知ったのですが、年齢的にもかなりの年配者?たぶん60歳は過ぎていると思います。そのせいか力強いというより、繊細な音とリズムとテクニックに終始している感じがしました。

初めてです、うるさいと感じないドラムの音を聞いたのは・・・

「へー、ドラムってこんなに繊細な音と心地よいリズムで奏でることができるんだ」
って思ったのです。衝撃でした。そしてその音に惚れました(^^♪

演奏が全てが終わった時にふと、気付いたのです。

小曽根真のピアノの選曲が、すごく繊細なリズムと流れるような曲ばかりだったことを、そうまるでグラス片手に薄暗い中、物思いにふけるように心地よく耳に流れ込んでくる邪魔にならない音楽。そしてそのメロディーの美しさ故、懐かしい昔も思い出してしまいそうな心の揺れに同調するピアノとドラム(ベースも素晴らしかった)

初めての体験でしたね、なにが?って

小曽根真は毎回ゲストに迎える一流の演奏者に合わせてピアノを弾く人なんです。

いままでいろいろのなジャズピアニスト、トランペット、サックスなど、さらに自ら率いるビッグバンドとそれぞれの場所で彼はピアノを変化させます。

私自身は小曽根真のピアノにぞっこんなのでそれを聞きたいと思って行くのですが、いつもゲスト優先で自分のピアノは伴奏のような(大袈裟ですが)弾き方で、前面に出ることがものすごく少ない。

それはずっと不満だったのですが、今回のコンサートで彼の「音の調和=人の調和」の精神を垣間見た気がしたのです、自分の名前が前面に出たコンサートであっても彼は前面に出てこない、どちらかと言えば補助のようにさえ見える。

それはきっと、相手に対する思いやりと、心の調和、音の調和を求めているからなのだと思ったのです。

今回のピーターアースキンとのドラムとピアノのセッションも、彼のそんな気持ちがあふれていると感じます。ピーターのドラムに魅せられた私が証拠!

存分にドラムの良さが引き出された選曲とピアノ演奏だったと思います。

どんな職業であろうと、人は調和の中でしか自分を生かしきれないと改めて思う出来事でした。

そんな彼が奏でるピアノの音だからこそ優しく美しい高音の響きになっているのかと思ったしだいです。

あーーーいろんな意味でよかったですーーー演奏

「水彩画」B47 古い魂

絵はボトルの色で私が感じる思いで描いています。
オーラソーマとしてのボトルの意味とは異なることもあるでしょね。

今、私中では「青」が主流となっている。
どうしてそうなのか?

オーラソーマ的に言えば、心が寛容と慈愛に入っているということ
そして、人々の中にいながら孤独もどこかで感じていること
さらに、肉体を持って生きていながら地球の外とのつながりが強くなっていること

先日夜中に「死」と一瞬でも対話したことに要因があるのかもしれない。

 

アファメーション:私は機会を最大限に生かします。私はこうした機会が明らかになると歓びを感じます。

ロイヤルブルー/レモン

私達はどこから来て何処に行くのか
輪廻転生を信じれば魂自体は死とは関係のない存在
魂は全ての転生を記憶している
今現在その記憶をさらに追加しているに違いないのだ
 そして肉体が滅びる時 はっきりと思い出すだろう
 私達が何処から来て何処へ行こうとしているのか を・・・

「水彩画」B8 アヌビス

絵はボトルの色で私が感じる思いで描いています。
オーラソーマとしてのボトルの意味とは異なることもあるでしょね。

今朝、まだ真っ暗だった。
夢の中で、胸の中に何か塊のようなものが広がりその痛みで目が覚めた。

食道が押し広げられているような痛み
ちょうど心臓のあたりだ
重苦しい痛み、手で上下にさすりながらなんとかならない物かと思案していた。

背筋を伸ばし深呼吸を繰り返す。

ふと、

あーこんな風に突然身体が変化して「死」への実感が私にも訪れるのかと思った。
自分はどうなんだろう、それにどんな対応をして、それに順応していくのだろう。

なんて考えながら、深呼吸を繰り返していた。
そしてその痛みは徐々に引いていき、おさまった。

胸の痛みで心をさらに開いて、私自身を生きる気持ちが強くなった。

アファメーション:この瞬間、今、ここで私は変化の可能性に開きます。

イエロー/ブルー

全てのことは個人に起きて来る。

生きるとは個人に起きてくるさまざまな現象に対応しづ付けることだ

困難が多ければ多いほど生きる為の知恵も増える

逃げずに立ち向かえ

それが幸せへの近道であると信じろ
人の一生は幸せに生きるための学習の場にすぎない

 

 

「水彩画」B92 グレーテル

絵はボトルの色で私が感じる思いで描いています。
オーラソーマとしてのボトルの意味とは異なることもあるでしょね。

棚の中でボトルの色あせが進んでいる。
ペールコーラルは、ほんのり赤みのさす色白の透明肌のようだ。
それがオリーブ色とのコントラストで、何とも美しい色合いに見えた。

アファメーション:シンプルなことの中に私は自分が達成する心理と気づきを見つけます。

ペールコーラル/オリーブグリーン

人の心は乾いている

たえず自分以外の自分を探している

自分と同じ人間はいないのに

誰か私をわかってくれー・・・

心の叫びをあげながら触手を伸ばす

ニューロンのように他とのつながりを求める

そして全ての者たちがやがてつながっていく

 

 

黄鉄鉱・パイライト

パイライトのノジュール(団塊)Φ45mm

愛情にあふれた家庭で、のびのび育つと丸い性格の人ができるように
鉱物の世界も、原料に不足なく自由な空間で連続的に育つと丸くなるのだそうだ。

パイライトはエネルギーとしては男性性、決断力、実行力。
強さが感じられる。

だが、この丸いボールになると、なんとものんきな子供のような無邪気さが感じられる。思ったことをすぐに行動に起こせる純粋なエネルギー、突っ走る子供のようだ。

下の写真がよく目にするパイライト、角ばった印象だ。
その光沢ときちっとした姿はまるで、社会に適応して現実を着実に生きるサラリーマンのように見える。ずいぶん印象が違うものです。

 

生と死が同じ喜びでありますように

新しいパンフレットを作りました。

私自身の思いが詰まったパンフレットです。

その中の言葉「生と死が同じ喜びでありますように」は10年前私が私自身に目覚めた時の日記の題名になった言葉です。

多分この言葉が私の今世の目的を象徴しているように感じています。

今回作成していただいた方がとってもこの言葉に惹かれたようで、そのことについてもっと話を聞きたいとおっしゃったので、文章にしました。

①死に対する周りの考え方が変、と感じていらっしゃったということですが、まわりのどのような考え方を変と思われたのでしょうか?またなぜそれを変と感じたのでしょうか。
死んでしまうことは、不幸でよくない事と皆が思っていること。
年齢的なことだったり、病気だったり、事故だったりと死はさまざまな形で訪れるが、生まれてしまったら後は死に向かって進むだけだと思っていた。そんなあたりまえのことで、なぜみんな恐れ忌み嫌うのか理解できなかった。

大人に聞けなかった。「何で死ぬのが不幸なの?」って。それほどタブーにされていた「死」という言葉。私は10代の頃からその「なぜ」をずっと抱えていた。

人の寿命はほぼ決まっている、その中で自分がどう生きて行くのか考えながら生きること、そしてただ生きることに集中すれば死の直前「あー大変だったけど、面白い人生だったな」と思えると信じていた。今も信じている。

添加物がどうの、環境がどうのと騒いでいるが、結局それに振り回されて、食事に気を使いすぎて片寄ったり、環境が悪いと引っ越したり、運動がいいとやりすぎて怪我をする。人間の底力はそんなことに左右されるほど弱くないし、どんな環境にも適応する能力は備えているはず、一番大切な心の問題を解決せずに肉体のデータだけで健康とは、それこそ食品会社や製薬会社の思うつぼだと思うのです。

それもこれも、人が「死」に対する恐怖のあまりに偏る見方、死はあたりまえにやってくる。それを容認し受け入れなければ、生きる基本もわからずじまいで生涯終わることになる。それもまた人生か?でも気づく人には気づいてほしいと思うのが私の願い。

②「生と死はどちらも同じ、人が生きる基本」と書いていらっしゃいますが、この部分、もう少し噛み砕いてご説明願えますか?
生命の誕生以来、生と死は切り離されたことはありません。それはセットです。一つであることをまず心のそこから理解してほしいと思うのです。
肉体を持ってこの世に生まれることと、肉体を捨て死ぬことがゴールであるのは変えることのできない真実。その死が見えているからこそ、私たちは幸せな死へと、どのように歩んでいくかが問われている。幸せな死とは、歩んできた道が幸せだったと最後に思える生き方。
人は心が満たされないと、怒りや恐怖を生み出します。心が満たされないとは愛されることの実感が持てないこと、人は愛なしでは生きて行けない。人が一人で生きるように設定されていないのは、愛を学ぶためだと思わざるを得ません。

もし私一人しか地球に存在しなければ、愛って何?と思っているでしょうね。地球の生命体は自らが生きることに集中して邪念が無い、それは満たされているのと同じ、満たされているからこそ自然界は調和が保たれている。人だけが愛にこだわり、自ら愛を破壊し、愛されることを切望してやまない。

「生と死が同じ生きる基本」と思うのは、ゴールの無いマラソンで真剣に走ることができないように、ゴールがあり、さらに時間が限られているからこそ頑張れる力と智恵がわいてくるものです。そしてゴールした後には未来の希望が待っている。

③死は再生の喜びであるということを皆に分かって欲しい、と思われるのはなぜですか?
死は自然に訪れるし、生まれることは死に向かって進むこと。地球誕生以来延々と続けられた生命の営み。それが進化に繋がっている。私たち人間はそれを踏まえて生まれ未来に向かって歩むように定められている。いつの世も新しい生命を求め新しい未来に希望託す。それが「生と死が同じ喜びでありますように」の言葉に繋がっている。
輪廻転生を信じなくても、地球の未来を信じている。「自分」がいなくなっても後に続く新しい命が引き継いでいくことも知っている、時間軸の中での未来はまさに今自分が生きているからこその未来である。自分が生きてきた歴史が必ず未来へ引き継がれると実感してほしい、私は何も影響を及ぼしていないと思っている人がいたら大間違い、生きてきた過程で親兄弟、友人知人、学校の先生、職場の同僚、隣の住人、いつも行くコンビニの店員さん、必ず人と接しているはず。それだけであなたは人に影響を及ぼしている。電車で人に席を譲ったことがあるかもしれない。道を尋ねられて教えたことがあるかもしれない。友人と喧嘩したことがあるかもしれない。恋人と別れた悲しみに打ちひしがれたかもしれない。小さな決断から大きな決断まで、思い出してほしいあなたの人生でどんな人と巡り合い決断をしてきたかを、それらすべて歴史として引き継がれます。そしてそれは必ず未来へ影響を及ぼしているのです。

そう、「可哀そう」な死などありえない!
私が「可哀そうに」に引っかかる意味。死なくして生きる意味なし!