とどのつまりは「万物共感」

右から始まって2年半余り、私の軌跡が見えて来る。

オーラソーマに始まる心の探求、自分自身への回帰そして自分の今世での役割に思いを馳せ、どんなときに人は心が病み壊れていくのか、人に寄り添うとはどいうことなのか、を考え理解できぬまま、自然とのかかわりの世界へと気持ちが移っていく。

突如、クリスタルとの縁が芽生えて本を読みあさったのが半年前、
鉱物の不思議、自然の美しさに魅了され、そして現実世界との深いかかわりがあるハーブの世界にも入っていくのであった。

そして今読んでいる「ヒーリング錬金術」三部作の中に心に染み入る言葉があったのでここに書き留めておきたい。著者は大槻真一郎 明治薬科大学名誉教授 科学史・医学史家 平成28年1月4日逝去

驚くべき無知の力
 こう言いますと、アロマ愛好者である皆さんに対して、これから私がお話しする重要なアロマの歴史について皆さんは驚くべき無知な方なんだ、と私が無礼千万な呼ばわり方をしているように錯覚される向きもあるかもしれません。とんでもないことです。じつは皆さんよりも私自身の方がきわめて無知な人間だと痛感している一人なんですから。物事をだんだんと知ってくると、それだけ自分の無知さ加減が何倍・何十倍・何千倍も増してきて、自分が小さく小さくなっていくことを私はこれまで何度となく苦い思いで味わってきました。しかし、そういう苦い経験を重なるにつけ、だんだんと自分の偏見というひとりよがりの考え方をへし折られ、そのつど偏見とか安易なほかからの孫引きに安住してきた自分を恥じ、何としても間接的ではなくて直接に原典・現物にあたいする研究をこつこつ手がける努力をするようになりました。それとともに自分の無知さをますます思い知らされ、事がらの始源・源流にさかのぼって調べる歴史研究に向かうようになりました。こうして無心に掘り下げていこうという習慣が徐々についてきてと思います。
かつて私は、古代ギリシャの哲学者ソクラテスにあこがれて、古代ギリシャ哲学を専攻するようになりました。あおびただしい知識・智恵の発酵時代を迎えていたソクラテル前後の時代、自分の知識を売り物にして、「自分は誰にも負けない優れた知恵者である」と豪語して民衆の前におどり出た数多くの知者たち。しかし彼らに対して、ソクラテスは、「私はこれといった大したことは何も知らない。が、そういう自分の無知を自覚し、神だけが優れた知者であるその智恵をただひたすら愛し求めるものである」と語りました。それがギリシアきっての予言の神アポロンのよみするところとなり、やがて「ギリシアきっての賢者はソクラテスである」という宣託を神がくだしたという話が広まり、そこに「愛知」する哲学者の時代が始まったというわけです。この謙虚な態度に私もあこがれました。おごり高ぶらず、自らを空にして無心で神の知恵を求めることが何にもまして優れていること、まずは自分の考えをできるだけ無にしてこそ、ほかとも共鳴していける「無知の知」の驚くべき力にのっとり、私も今回はそのうちの一つを発表してみたいと思います。

オーラソーマの中にはタロットカードがあり、0番に「愚者」と名前の付いたカードがあり、22番にやはり「愚者」と同じ名前のカードがあります。

ちょうど0番の「愚者」が、ギリシア時代の「我こそは知恵者である」と叫ぶ多くの知者たち。そして22番の「愚者」が、ソクラテスってことになるのです。

誰しもが何度も通る「わたしって凄いよね、すっごく頑張ったし周りも凄いね~~って言ってくれる、私ってやっぱり凄いんだ!」ってとっても満足した優越感に浸れる瞬間。そしてそんな気分もあっと言う間に自分より優れた人が現れ、ペシャンコにされ、そしてまた努力が始まる。それの繰り返しが人生でもあるが、そこに一度でも地位や名誉がついたらそれに安住してしまうと人としての成長は止まってしまうだろうと思います。

愚者=私は何も知らないことを知っている。その重要性を著者述べている。

たえずまわりに意識を向け、新しいことに心を開いて吸収していくことの重要性。自分の固定観念など取るに足らないことを絶えず念頭に置き観察する。謙虚さと寛容さで全てのことを見聞きする心。

いろいろなことを知識として知れば知るほど知らないことがなんて多いのだと、この2年半余りの自分自身の状況が見えて来るようです。

もちろん言葉では昔から知っていますよ。何事もおごらず謙虚さをもって自分は無知であることを自覚するって。なんどもなんども言葉として耳に入ってきてはいますよね。子供のころから。

でもね、わかっていると理解するとはまた別物。心の奥からそれを理解するにはまだまだ知恵が足りないと思い始めているのです。あーこの感じ前にもあったなーって思い出しますが、やっぱりその時思っても心から理解していないんですよね。だからまた今思っている。結局その繰り返しなのでしょう、けれど前の「あたしって何にも知らないんだなー」って思って、過去に改心したことを今思い出すことが、一つ「無知の知」に近づいた気はするのです。

この文章は、改めて「無知の知」の大切さを思い出させてもらった文章でした。この文章に巡り合ったのも、私が求めている一つの方向性なのだとも思うのです・・・

さらにもう一つの文章

・・・私はここで再び、少し前にふれた「万物共感」、つまりsympathia(反感)の心を喚起したいと思います。確かに、ある石によって深い予知能力を励起されたある人が、気象現象その他との共感によって、雨や嵐の来るのを予測したり、災難を未然に防いだりする不思議を体得することはあったでありましょう。予知というか予感というか、しかしそうしたものは絶えず当人や周辺の人たちの欲望その他の事情によって曇らされたり妨げられた李曲げられたり(歪曲)するものでしょう。悠久の測りがたいものを、いついかなるときもよしすることなど人間にはできるはずは毛頭ないのですから、私ども人間はその都度、どこまでも欲張る事無く、謙虚に敬虔に感謝しながら、自然の様々な声を聞きとれるよう努める以外に方法はないのです。誤つことのあまりにも多い私ども人間の運命を絶えず自覚しながら、こうすれば最悪のことはないとひたすら信じて、ただ無心で祈ろうとする心を持ち続ける以外に何があるのでしょうか。
 どんな石が、どんな植物が、どんな動物が、またはどんなきっかけが、その人に深く共感(または反対に避ける反感)の知恵を何らか与えれくれるのか、それは各人各様で、なかなかわかりませんが、できるだけ多く深く宇宙の意思との一体感を体得できれば、それだけで幸せなことでありましょう。それがいわゆる「死んで宇宙にまた生きる」ことにつながるのか、それもなかなかわかりませんが、透き通る宝石の無色の輝きや永遠的な美しい色彩のオーラには、私どもの心を狭い自分を超えて励起する無限とも言える力が秘められていると確信できることがあり、そのとき私ども自身の心も宇宙の心をくまなく映す明鏡ともなると思います。

天然石がブームになっている昨今、例外なく私も家にそれなりの数の石が集まり始めています。何故惹かれるのかはまさに「宇宙との一体感」を求めているのだなと感じました。そしてメディカルハーブについてもやはり同じ、地球との一体感を求めているのだと・・・

地面、私が立っている場所、これなくして私達は存在しない。

石はとてつもなく長い年月をその地中で過ごしてきた。本物の「知恵者」である。
その智恵者に教えをこうて、謙虚に無欲に心を空にして向き合う気持ちがさらに増してきた思いです。

そして我が家の荒れ果てた庭に手を入れようと決め、その準備に心はその大変さとワクワク感が混同してざわついている。そうしようと思い立ったのは4年前、思いは確実に現実化している。着実にそれに向かっての知識も増えてきた、まだまだ足りないことは分かり切っているが、体感しながら地べたと共に共感しながら謙虚に無欲に取り組んでいこうとこちらもあらためて思ったしだいです。

もちろん、ちょっと怖い虫たちともです(笑)

「万物共感」結局ここに尽きるのですね。
もちろん人と人も同じです

音楽から学ぶこと

私は「小曽根真」のファンです。

年6回は出かけていると思いますが、先日行ったコンサートで何故か、はたと気づいてしまったことがあったのです。

彼はジャズピアニスト、ソロで弾くのはまれで、ほとんどセッションとか、最近はオーケストラとクラシックピアノにも挑戦しているのですが、
今回は、2部にピーター・アースキンとのジャズセッションが入っていました。

ピーターアースキンはドラマーです。
私は初めて彼を知ったのですが、年齢的にもかなりの年配者?たぶん60歳は過ぎていると思います。そのせいか力強いというより、繊細な音とリズムとテクニックに終始している感じがしました。

初めてです、うるさいと感じないドラムの音を聞いたのは・・・

「へー、ドラムってこんなに繊細な音と心地よいリズムで奏でることができるんだ」
って思ったのです。衝撃でした。そしてその音に惚れました(^^♪

演奏が全てが終わった時にふと、気付いたのです。

小曽根真のピアノの選曲が、すごく繊細なリズムと流れるような曲ばかりだったことを、そうまるでグラス片手に薄暗い中、物思いにふけるように心地よく耳に流れ込んでくる邪魔にならない音楽。そしてそのメロディーの美しさ故、懐かしい昔も思い出してしまいそうな心の揺れに同調するピアノとドラム(ベースも素晴らしかった)

初めての体験でしたね、なにが?って

小曽根真は毎回ゲストに迎える一流の演奏者に合わせてピアノを弾く人なんです。

いままでいろいろのなジャズピアニスト、トランペット、サックスなど、さらに自ら率いるビッグバンドとそれぞれの場所で彼はピアノを変化させます。

私自身は小曽根真のピアノにぞっこんなのでそれを聞きたいと思って行くのですが、いつもゲスト優先で自分のピアノは伴奏のような(大袈裟ですが)弾き方で、前面に出ることがものすごく少ない。

それはずっと不満だったのですが、今回のコンサートで彼の「音の調和=人の調和」の精神を垣間見た気がしたのです、自分の名前が前面に出たコンサートであっても彼は前面に出てこない、どちらかと言えば補助のようにさえ見える。

それはきっと、相手に対する思いやりと、心の調和、音の調和を求めているからなのだと思ったのです。

今回のピーターアースキンとのドラムとピアノのセッションも、彼のそんな気持ちがあふれていると感じます。ピーターのドラムに魅せられた私が証拠!

存分にドラムの良さが引き出された選曲とピアノ演奏だったと思います。

どんな職業であろうと、人は調和の中でしか自分を生かしきれないと改めて思う出来事でした。

そんな彼が奏でるピアノの音だからこそ優しく美しい高音の響きになっているのかと思ったしだいです。

あーーーいろんな意味でよかったですーーー演奏

生と死が同じ喜びでありますように

新しいパンフレットを作りました。

私自身の思いが詰まったパンフレットです。

その中の言葉「生と死が同じ喜びでありますように」は10年前私が私自身に目覚めた時の日記の題名になった言葉です。

多分この言葉が私の今世の目的を象徴しているように感じています。

今回作成していただいた方がとってもこの言葉に惹かれたようで、そのことについてもっと話を聞きたいとおっしゃったので、文章にしました。

①死に対する周りの考え方が変、と感じていらっしゃったということですが、まわりのどのような考え方を変と思われたのでしょうか?またなぜそれを変と感じたのでしょうか。
死んでしまうことは、不幸でよくない事と皆が思っていること。
年齢的なことだったり、病気だったり、事故だったりと死はさまざまな形で訪れるが、生まれてしまったら後は死に向かって進むだけだと思っていた。そんなあたりまえのことで、なぜみんな恐れ忌み嫌うのか理解できなかった。

大人に聞けなかった。「何で死ぬのが不幸なの?」って。それほどタブーにされていた「死」という言葉。私は10代の頃からその「なぜ」をずっと抱えていた。

人の寿命はほぼ決まっている、その中で自分がどう生きて行くのか考えながら生きること、そしてただ生きることに集中すれば死の直前「あー大変だったけど、面白い人生だったな」と思えると信じていた。今も信じている。

添加物がどうの、環境がどうのと騒いでいるが、結局それに振り回されて、食事に気を使いすぎて片寄ったり、環境が悪いと引っ越したり、運動がいいとやりすぎて怪我をする。人間の底力はそんなことに左右されるほど弱くないし、どんな環境にも適応する能力は備えているはず、一番大切な心の問題を解決せずに肉体のデータだけで健康とは、それこそ食品会社や製薬会社の思うつぼだと思うのです。

それもこれも、人が「死」に対する恐怖のあまりに偏る見方、死はあたりまえにやってくる。それを容認し受け入れなければ、生きる基本もわからずじまいで生涯終わることになる。それもまた人生か?でも気づく人には気づいてほしいと思うのが私の願い。

②「生と死はどちらも同じ、人が生きる基本」と書いていらっしゃいますが、この部分、もう少し噛み砕いてご説明願えますか?
生命の誕生以来、生と死は切り離されたことはありません。それはセットです。一つであることをまず心のそこから理解してほしいと思うのです。
肉体を持ってこの世に生まれることと、肉体を捨て死ぬことがゴールであるのは変えることのできない真実。その死が見えているからこそ、私たちは幸せな死へと、どのように歩んでいくかが問われている。幸せな死とは、歩んできた道が幸せだったと最後に思える生き方。
人は心が満たされないと、怒りや恐怖を生み出します。心が満たされないとは愛されることの実感が持てないこと、人は愛なしでは生きて行けない。人が一人で生きるように設定されていないのは、愛を学ぶためだと思わざるを得ません。

もし私一人しか地球に存在しなければ、愛って何?と思っているでしょうね。地球の生命体は自らが生きることに集中して邪念が無い、それは満たされているのと同じ、満たされているからこそ自然界は調和が保たれている。人だけが愛にこだわり、自ら愛を破壊し、愛されることを切望してやまない。

「生と死が同じ生きる基本」と思うのは、ゴールの無いマラソンで真剣に走ることができないように、ゴールがあり、さらに時間が限られているからこそ頑張れる力と智恵がわいてくるものです。そしてゴールした後には未来の希望が待っている。

③死は再生の喜びであるということを皆に分かって欲しい、と思われるのはなぜですか?
死は自然に訪れるし、生まれることは死に向かって進むこと。地球誕生以来延々と続けられた生命の営み。それが進化に繋がっている。私たち人間はそれを踏まえて生まれ未来に向かって歩むように定められている。いつの世も新しい生命を求め新しい未来に希望託す。それが「生と死が同じ喜びでありますように」の言葉に繋がっている。
輪廻転生を信じなくても、地球の未来を信じている。「自分」がいなくなっても後に続く新しい命が引き継いでいくことも知っている、時間軸の中での未来はまさに今自分が生きているからこその未来である。自分が生きてきた歴史が必ず未来へ引き継がれると実感してほしい、私は何も影響を及ぼしていないと思っている人がいたら大間違い、生きてきた過程で親兄弟、友人知人、学校の先生、職場の同僚、隣の住人、いつも行くコンビニの店員さん、必ず人と接しているはず。それだけであなたは人に影響を及ぼしている。電車で人に席を譲ったことがあるかもしれない。道を尋ねられて教えたことがあるかもしれない。友人と喧嘩したことがあるかもしれない。恋人と別れた悲しみに打ちひしがれたかもしれない。小さな決断から大きな決断まで、思い出してほしいあなたの人生でどんな人と巡り合い決断をしてきたかを、それらすべて歴史として引き継がれます。そしてそれは必ず未来へ影響を及ぼしているのです。

そう、「可哀そう」な死などありえない!
私が「可哀そうに」に引っかかる意味。死なくして生きる意味なし!

 

看取ること

犬の話です。

我が家の愛犬もすでに16歳を過ぎ、そろそろと覚悟はしていました。

ちょうど1週間前、食べた物を戻すことをきっかけに、食べては戻す、下痢をするを繰り返し、2日後には何も食べなくなりました。そして、かろうじて水を飲んでいたのですが、それさえも戻すようになり、あっという間に歩けなくなりました。

今は、少量の水を含んではただひたすら寝ています。

苦しがっていないので老衰なんだろうなーと推測しています。

すでに耳、目はほとんで機能していません。

しかし、不思議なことに人がそばを長時間は慣れると(30分くらい)クワォーンって泣くのです。

こっちは寝ているからと、食事の準備、掃除、買い物など一匹で置いておくのですが、どこから出るのかと思うほどの大きな声で呼ぶんですよね~^^

やはり家犬といえ動物の感性はすばらしいですね。

で、私が看取る役を引き受けているのですが、不思議なことに悲しみがわいてこないのです。

以前飼っていたビーグル犬は、末期の時、骨と皮になった身体に触れられないほど心が痛くて悲しみでいっぱいだったのですが、それが無く寝たままおしっこ垂れ流しの状態を見ても、「あら~~でちゃったの、身体拭こうねー」ってそのたびにぬるま湯で体中をきれいにふくことを、自然にできているのです。

何があの時と違うのか?仕事を休んで二日目、ずっと考えています。

①飼い主が兄である
②一緒に暮らし始めて2年半と短い

これは大きいことかもしれないと思うのです、彼女(犬)との思い出は2年半、16年以上生きてきたほんの一部、それも老犬となった時からです。

そこで思い出すのが、私が通っている仕事場です。
元気だった人が突然の病気や事故で障害者になる。そんな方々がいらしているセンターなのですが、ご家族の思いは相当複雑で大変な思いをされていると聞きます。

私は、障害者となられてからのその方しか存じ上げませんが、ご家族にとっては数十年の健常者としての触れ合いの歴史があって、その思いが強い分だけショックも大きと推測するのです。

「知らないことはいい事だ。」そんな言葉が頭をよぎります、知らないからこそできる愛ある観察と冷静な判断。

そこでまた思うのが、母です。

すでに90歳を過ぎました。母に対しても「愛ある観察と冷静な判断」ができていると思っている私、同じことだと思いました。

21歳の時に家を出てから、1時間とかからない距離に住んでいながら、年に4度ほどしか返らず40年近くを過ごしてきた私です。色々あったのです(;^ω^)

そのおかげか、老いた母と暮らし始めて2年半、私の中には今横で穏やかに寝ている愛犬とダブってしまいます。犬と人間をいっしょにするな!って怒られそうですが、気持ちとして、縁あって一緒に暮らした生き物が天寿を全うしていく。その姿を「お世話しながら見させていただく」ことができることは幸せなのだと思うのです。それはとても神聖な気持ちにもさせてくれるからです。

結局自分もそうして欲しいと思う願望なのでしょうね。

亡き人の愛にふれて

彼女は4か月前にご主人をがんで亡くされました。

半年にわたるご自宅での療養でそのままご自宅で看取られたそうです。

とても強い絆で結ばれていたご夫妻だったのだと想像します。

 

カードリーディングをさせていただきました。

ローズクォーツのカードが未来のガイドとして表れています。

そして実際に行動を起こす場所にブラッドストーン。

彼女は今新しく始めようと思っていることがあり、前に向かって進むことを決めています。

ブラッドストーンは「勇気」のカード

とにかく前進、後戻りはできない。 すでに橋を渡り始めてしまった。何があっても向こう側に勇気をもって渡り切るしかない。
大変な道のりかもしれない、ですが行こうと決めている本人がいます。
それが、自分にとって最善の道で学びの道であると潜在意識は知っているから、

私には、ハートのローズクォーツの愛が、そんな彼女を優しく補助し、見守っているようにに見えます。

今は亡きご主人の愛です。

家庭に縛られず自由に飛び出そうとする彼女を、優しく包んでくれるような気がしました。

「ただカードを選んだだけなのに、ここまで話が進むとはなんだか不思議ですね」

って、最後に彼女のひとことが印象的でした。

 

テレパシーが使えたなら

とっても素敵なお手紙頂きました。

そして、とっても感激しました。

その場で涙こそこらえましたが、心は涙で洪水警報でした。

絵手紙です。

私の通っている障害者センターでパソコンを習っている方です。
ご自宅にも何度がパソコンのことで伺ったこともあります。

彼女は6年前60代の初め脳血管疾患で倒れ、右半身麻痺が残りました。
そして、左の脳のたぶんかなりの損傷を受けたと思われます。

失語症と言われる機能障害で、文字、言葉をすべて忘れていました。
人の言葉が理解できない、書いてある文字がわからない、漢字もひらがなもカタカナも何一つわからない、英語と日本語の区別さえできない。
さらに、心に言葉があっても声に出して発声ができない。

彼女を襲った絶望感を想像することさえ私にはできません。

彼女は私と同じパソコン講師でした。それも私よりもってレベルの高いことを教えていたようです。

初めて、パソコンができるとご主人といっしょにセンターにいらしたとき、パソコンに向かい座ってマウスを持つ姿は手慣れたものでした。

しかし始めた途端。彼女は数文字で手を止め、止めてしまったのです。

「どうしました?」って声をかけた私に向けた顔には涙が流れ、言葉にならないあーあーと首を振り私を見つめました。

私は思わず肩を抱いて一緒に泣きました。そうするしかなかったのです。

そしてパソコンはそれから1年センターではやりませんでしたが、実は自宅で必死にローマ字入力を覚えていたのです。

また始めたいと、1年後にパソコンを始めた時、ルビ付きの文章をローマ字表をほとんど見ずに入力する姿に凄く驚きました。

「あいうえお」から文字の形を覚え、自分の名前や、家族の名前、日常的な会話、あありとあらゆるものの名前をノートにメモをし、気になる文字を書いてはフリガナをつけてもらい、音と文字の形と意味を頭の中で合わせて覚えていく、その気が遠くなるような努力は並大抵ではないと想像するのです。

久しぶりに昨日来てほしいとメールが来て、自宅にお伺いしたのですが、それがパソコンの話ではなく、自分がどんなに苦労して文字を覚えてきたのか、分かってもらえないから作ったのだと、10枚ほどの上のような絵と単語を組み合わせた、彼女の気持ちを表したものを見せてくれました。

どうもそれを、リハビリの先生に見せたけど理解してもらえないから、私に説明文を書いてほしいってことのようでした。

最初に会った時から4年は経過していますが、今でも「はい」「んったく」「え?」くらいしか言葉にできない彼女は、上にあるようなイラストと単語での意思疎通を自ら考えて作っています。さすが元パソコンの講師らしいやりかたですね。

昨日の御礼を私に伝えるために彼女が作ったものです。
最後の、勝手に I Love you の絵が可愛いです(^◇^)

一緒に頑張って行こうと、二人で目力でのアイコンタクトを交わしてきました。

心の力強さ、やさしさ、可能性、人間って本当に素晴らしい生き者であると痛感します。生きるって何?って、私の本当の疑問がこの場所から始まっていると感じています。

15年以上縁あって障害者センターで仕事をさせていただきながら、多くの方と接し、言葉の大切さまたは言葉にたよらない人とのかかわりを模索し実践させていただけたことに、私の今があり、あらためて感謝の気持ちでいっぱいになりました❤

 

スイスイエッセンスとグリッドのダブル効果?

4日の日曜日とある講座でスイスイエッセンスなる物の話が出て、講座とは関係ないのだが・・・

停滞していたことが動き出すとか、とんとん拍子にうまくいくことが多いって話を聞いて皆様興味津々のご様子、私と言えば、とりあえずスイスイ行きたいことも思い浮かばないので、面白く話を聞いていたのですが。

ランチの時突然この日の講座が18時までなのが判明、私は17時と勘違いしていたのだ。さー大変、頭グルグルどうしよう1時間ずれると寝る時間もどうしても1時間遅れてしまう。

ってそこで、講師の方が「スイスイエッセンス使ったら」っておっしゃって、あーそうですねって、そしたら帰ってスイスイ事が運び、いつもの時間に寝られるかも。と思ったのです。

そのあと、4時のお茶の時間と帰りがけに沢山シュッシュッとかけさせていただき帰途につきました。

まず地下鉄ホームの階段を下りる時ベルが鳴り目の前で電車が行ってしまった。
そして次の電車は急行で乗れず、そのまま15分ほど待ちぼうけ

ダメじゃん!って思いながら次の日

やはり、朝から電車は遅れ、行きも帰りも乗り継ぎ悪い。もしかしたらいつも気にしていないだけで同じなのかもしれないと思ったりしたのです。

そしてスイスイエッセンスのことも忘れ、1週間

カードの先生であり、ヨガの講師をお願いしているポール・ウイリアムズさんに、クリスタルアライカードのリーディングをしていただきました。

初めてです、ドキドキでした。そしてその内容も驚くべき内容で(私にとって)まだずっと遠い妄想のように考えていたことが現実になる予兆が示されたのです。

初めて妄想が現実味を帯び、私の中で大きく広がりを見せたので、次の日祈りを込めグリッドを作りました。

そして二日後、それを後押しする現実的な出来事が勃発。

ちょうど、遊園時で飛行機に乗っていて「あーこのままエンジンついて飛べたらいいなー」って思ったら本当にエンジンがついて飛ぶ準備始めた。って感じです。

ちょっとまって、どうやって運転するの?だってまだどこに行くかはっきり決めてないし、嵐になったらどうするの?食事はどうするの?燃料は?それにどこかについたらお金もいるし、パスポートは?

な~んて、突然ジタバタする感じなのです。今💦💦💦

ちっとも楽しくなく動揺が激しい、只今混乱状態なのです。

スイスイエッセンス、今頃効いてきましたか?
グリッドの祈りも超スピード?

準備ができていないのにとにかく進め~~とばかりに走りだした感じです。

とにかく落ち着きましょうー・・・と自分に言い聞かせている今です。

 

カフェイン中毒 その2

Facebookでおすすめの本として紹介されていたので読みました。

西洋医学、東洋医学、精神世界と、バランスがとれていてどこにも偏っていないのがとても素敵なのでご紹介します。家庭の医学書としてもおすすめです。

作者は:アンドルー・ワイル氏
ハーヴァード大学医学校卒業、医学研究者、臨床医、アリゾナ大学医学部教授
「ワイル博士のナチュラル・メディスン」から引用

カフェインについて書いてあります。

〇コーヒーは強力な薬物である。コーヒーが好きで、ときどき便利な興奮剤として使い、何の害作用もない人は、飲んでもかまわない。しかし、毎日欠かさず飲んでいる人は、まず嗜癖になっていると考えなければならない。

〇多少でも以下の症状および疾患がある人はコーヒーを飲んではならない。偏頭痛・ふるえ・不安・不眠・不整脈・冠動脈性疾患またはその家族歴・血清コレステロールの値が高い人・高血圧・胃腸疾患・泌尿器疾患・前立腺疾患・乳腺症・月経前症候群・緊張性頭痛・発作。

〇紅茶、コーラなどのソーダ類、それに南米産のマテやガラナにカフェインが含まれている。カフェイン含有量はコーヒーほどではないが、お茶には喘息の治療薬として使われるテオフィリンが含まれている。したがって、興奮剤につきものの副作用であるイライラ・不眠・不安・動悸などの副作用がある。

中学生のころから祖母と暮らしていたので、お茶は日常的に飲んでいました。それも芽茶や玉露の粉茶が祖母が好きで、甘い濃いお茶を毎日飲んでいました。それが抹茶好きになった要因なのかと思いますが、私の場合それにコーヒーも加わり仕事場ではコーヒー、家では濃いお茶とカフェインだらけの生活だったと思い出します。

スギ花粉同様、体に取り込む量の限度を超えるとある日発症する。みたいなことがカフェインにもあるのでしょうか?

それはさておき、コーヒーに限らず、アルコールやチョコレート、たばこなど常習性の中毒は、やめられない原因に心の問題が含まれているようなのです。

この嗜癖の章でワイル博士が最後に書いている言葉が心に沁みました。

嗜癖治療の一つに自分より偉大な力とのつながりを推奨していることである。その高次の力をどんな存在だと考えるかはさほど問題ではない。問題はそれとつながっているという実感をもてるかどうかである。高次の力は旧約聖書の父なる神でも、イエス・キリストでも慈悲深いブッダでも、大霊でも、女神でも、主客未分の純粋意識でも、単に神秘であってもかまわない。どんな宇宙を考えようが、その宇宙で自分のいる位置をどこに置こうが、それは自由だ。自分が自分より大きな何かの一部であり、それに支えられていると実感している人が、自我という檻越しに世界を眺め、世界と自分は何のつながりもないと感じている人より恐れの感情が少なく、健康なのである。

本当の意味での人の健康とは?と考えさせられる言葉です。

今現在カフェインもアルコールも受け付けなくなった私の身体は、確実に高次の意識と繋がりつつあると思うのです。それこそ若いころから酒におぼれていた私は、自分を外と切り離すため、意識を殺すために酒に頼っていたと思い出します。

今は、人は一人で生きていないと感じることや、周りがあって生かされている実感など、心身ともに安定していてブレが少なくなりました。そして純粋に自分の心と繋がれるので、自分がどうしたいのか何が必要なのかがわかってきて、私にとって不必要な物、例えば「毒」になるようなものは自然に体が受け付けなくなるのもなんだなーと、突然飲めなくなったお酒や、カフェインに関して感じるのです。

 

カフェイン中毒大丈夫ですか?

私は医者嫌いです、なので薬もほとんど飲みません。もちろん自分で緊急と思える時は別ですが・・・医者に良い思い出が無いのが原因です。

そんな私は、いつも具合が悪くなると「どうした?どこが悪い?どうすればいい?」と自らの体に問いかける「癖」みたいなものが自然に身についてしまいました。そしてとにかくすぐに横になって静かにしてるのが常です。

寝込むほどひどくないときは、スーパーに行って「どんなものが食べたい?」って自分に聞きながら物色します。私の場合一番多く反応したのは普段めったに食べない、プリンとかお饅頭のような和菓子でしたね。何故かは不明(笑)

そんな私でも気づきにくかったのがカフェインです。

コーヒーは好きですし、抹茶などは特に大好きで、抹茶にできるセラミックの粉ひきを買って毎日マグカップに2杯は飲んでいました。

その症状がひどく出始めたのがいつ頃かはわかりませんが、今思えば自分で挽いて抹茶を飲み始めてからだと思うのです。

最初にコーヒー専門店で引き立て入れたての本格コーヒーを飲むと、気分が悪くなる傾向が出始めたました。コーヒーは空腹時に良くないなんて話を聞くのでそのせいかと思ってたので、食事の後に飲むようにしていたのですが、それでも気分が悪くなり、嘔吐するほどではないですが、下痢みたいな症状になることもあっって、食事のせいにしてしまうこともあったのです。

さらに気づきにくかったのは、それがいつもではなかったからです。なぜならフランチャイズのコーヒー店ではほぼ症状がでないからです。今思えばカフェイン量のせいだとわかりますが、カフェインのせいとは全く考えていなかったのでわかりませんでした。

そんな症状が定期的に続いていた時、昨年の1月だったと思いますが、あるコンビニ店の従業員がカフェイン中毒で亡くなった話が大きくニュースになりました。

「これの症状に多く当てはまる方はご注意ください」とパネルが大きくテレビに映し出された時、「やだーわたしってカフェイン中毒だったんだ」って思い知ったのです。

その内容にほぼ当てはまってしまった私でした。

もちろん好きだったコーヒー辞めましたよ~、そして大大大好きな抹茶もやめました。特に玉露などの高級茶葉にはとっても多くカフェインが含まれていることがわかって抹茶にする器具も使わなくなってしまいました。

たま~に、抹茶ラテ飲みますがその店の抹茶の量で私の気分は全く違います。きちんと美味しく多く使われているところは、てきめんに症状がすぐ出ます(笑)

辞めて1年ちょっと過ぎます。
あの、しょっちゅう胃がむかつくような気分の悪さ、腸の不快感は全くなくなりました。「わたしって体弱いからー」って思っていたのはなんだったのでしょうか?

ほぼ、カフェインレスの生活になって1年以上、今ではカフェインに敏感になってしまってドトールのアメリカンコーヒーものめません💦

一度自分の身体と相談してみてください。

症状としては

・落ち着きがなくなる
・不安感
・不眠
・胃痛
・吐き気
・心拍数の増加

私は胃痛、吐き気、心拍数の増加、下痢でした。